吉田拓郎さん、誕生日おめでとうございます。
今日は拓郎さんの69回目の誕生日。
僕と干支が同じの12歳上。
心よりお祝い申し上げます。
先日、TV番組で萩本欽一さんの『ファミリーヒストリー』を見て、彼の父、萩本団冶氏の功績を知りました。
戦後、激動の時代に作られたカメラ、ダン35。
国民の誰もが手軽に扱えることを願い焦土と化した戦後の東京で開発された小型カメラ。
きっかけは、GHQの働きでフィルムメーカーに写真用ロールフィルムの生産中止し、医療用レントゲンフィルムを増産する命令を出した事。
当時の写真用ロールフィルムは「120」、「127」と呼ばれる6×6版のような大きいサイズのものだった。
このままではカメラを生産しても使えるフィルムが無いと判断し、かろうじて生産が許可されていた35ミリの低価格なボルタ版フィルムを使うことにより、小型カメラを作ることを決めた。
そのカメラは昭和23年当時、100,000円したドイツ製のカメラ(ライカ)や、およそ60,000円というニコンの国産カメラに対して、3,000円で売り出したという。
その後、団冶は当時珍しいカメラの専門誌『ダン+フォト』を発刊、表紙には堺正章の父で人気喜劇俳優の堺駿二氏を起用し、紙面ではダン35を使ったコンテストを開催し、写真を楽しめる環境を提供した。
しかしながら、当時の戦後復興のさなかで衣食住に大変な状態ゆえに、民衆に余裕は無く敢え無く昭和25年に倒産となる。
一家解散に追い込まれた後、萩本欽一氏はコメディアンを目指し、浅草のストリップ劇場(浅草東洋館【旧東洋劇場】)に飛び込み、東八郎を氏と仰ぎ芸を学び、その後コント55号を結成した。
萩本欽一氏もお笑いの世界を作り上げた男。
そして尊敬する吉田拓郎氏も今の日本の音楽の世界を作り上げた男。
心より敬意を捧げると共に、益々のご活躍とご健勝をお祈り申し上げます。
p.s.
『ファミリーヒストリー』、吉田拓郎さんも出ていただけたらいいなぁ。
でも、拓郎さんはそういうのを嫌っちゃうんだろうけど・・・
しかしながら、当時の戦後復興のさなかで衣食住に大変な状態ゆえに、民衆に余裕は無く敢え無く昭和25年に倒産となる。
一家解散に追い込まれた後、萩本欽一氏はコメディアンを目指し、浅草のストリップ劇場(浅草東洋館【旧東洋劇場】)に飛び込み、東八郎を氏と仰ぎ芸を学び、その後コント55号を結成した。
萩本欽一氏もお笑いの世界を作り上げた男。
そして尊敬する吉田拓郎氏も今の日本の音楽の世界を作り上げた男。
心より敬意を捧げると共に、益々のご活躍とご健勝をお祈り申し上げます。
p.s.
『ファミリーヒストリー』、吉田拓郎さんも出ていただけたらいいなぁ。
でも、拓郎さんはそういうのを嫌っちゃうんだろうけど・・・
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