僕にとっての吉田拓郎さんは
僕達同年代のファンにとっては当時の自分の出来事と拓郎さんのアルバムがつながっているところに拓郎さんに惹かれているところもあると思います。
また、その時代をしらない若い層のファンには楽曲と詞が伝える拓郎さんの力強さのようなものに感銘を受けているようにも感じます。
僕にとっての吉田拓郎さんはというと
小学5年生の時に、旅先での出来事と交錯したものがあります。
ホームという脚立にのって見る列車と地面に立つ視点の違いもあったのでしょう。
蒸気機関車の動輪は僕の身長よりも大きいのです。
高さだけでも2倍以上ある鉄の黒いかたまりが心臓の鼓動のようなリズムで強く大きな音を立て、頭からは真っ黒な煙をモウモウと吐き出している様は怪物のようでもありました。
なんて凄いんだ!!

その感動をきっかけに僕は蒸気機関車に取りつかれます。
その翌年、イメージの詩のEP盤を聴いた時、あのSLを見た時の感動を思い出したのです。
あの時代、社会風刺を曲にして新宿をはじめ学生運動と交じっていろいろな場所で若者達がギター片手に人だかりの中で空に向かって叫んでいた。
そんな中で受け入れられていた『岡林信康』氏
彼の楽曲を僕の感覚で一言で言うと『わたし達』。
徒党を組んで世情に対して反発していた若い世代の学生達が、変貌をはじめた貧しい時代に戦争反対、部落問題などを訴えていた時、岡林さんの曲が浸透し、フォークの神様として称え祭られていた時の事。
そんな時、吉田拓郎さんは『僕は』という視点で世界を見、楽曲にしていた。
それゆえ、世俗の波につられ徒党を守る先住者達は拓郎さんを非難し『帰れコール』を浴びせたものです。
そんなフォークの時代背景の中で開催された中津川フォークジャンボリー。
メインステージと向かいあって作られたサブステージで拓郎さんが歌いだした。
受け入れられる事のない空気の中、彼のPAが故障し生音だけになったにもかかわらず、彼はあのSLの咆哮のように『人間なんて』を歌い続けた。
心に響くその叫びを観客に届いたと同時、流れるように観衆が拓郎さんのステージに怒濤のように押しかけた。
PAがやがて復旧した頃には多くの観客達が集まっていた。
2時間にもわたって『人間なんて
』と拓郎さんは歌い続けた。

フォーク界のプリンス、吉田拓郎さんの声、心の叫びが観客に届いた時だった。
『メインステージにいくぞ
』と一人の男が言った。

拓郎をメインステージで歌わせようという声だった。
それをきっかけにしてなだれ込んだ観客達によってステージは壊された。
結局、最後は主催者側と観客とが喧嘩状態になりあのフォークジャンボリーは中止となり途中終焉となった。
それが拓郎神話の始まりかもしれない。
東京に帰った拓郎さんは渋谷の「ジャンジャン」で連続3日間のライブをする。
最終日は中津川の復活といった感じで人間なんてだけを歌いまくったという。
吉田拓郎さんの楽曲に、1.徒党を組まない。(この指とまれ) 2.開拓精神。(人間なんて) 3.望みを持ち続ける。(望みをすてろ、まにあうかもしれない)など 多くの楽曲が彼の心を伝えていると思います。()内は曲名。
そうした多くの楽曲が、まだ若く何もみえかった弱い僕に大きな力と光をくれました。
曲だけでなく、あの時代になかった事も拓郎さんは築き上げて行った。
音楽事務所の設立、全国ツアーを始め、つま恋、フォーライフの設立等、今まで誰も踏み入れなかった場所に土足で入りこむ男だった。
容赦なくあびる多くの軋轢、非難を受けながらも築き上げてきた孤独の先導者。
それが僕にとっての吉田拓郎さん。その人であります。
歌を作る、歌を歌うという事では他にも素晴らしいミュージシャンがいるのは確かです。
そんなミュージシャンの曲も僕も好んで歌います。
ただ吉田拓郎さんの曲はとても大きくソウルフルなもの尊大な曲なのです。
心より尊敬いたします。
ありがとうございます。吉田拓郎様。
拓郎さんのおかげで今の僕があるのだと感謝しております。
って長々と書いてしまい失礼しました。
あくまでも僕の個人的な感傷なのだと一笑していただいて結構です。
そんないち拓郎ファンの独り言でした。
**** お詫び ****
この中で書いた内容はあくまで僕の頭の中に入っているものなので実際とは異なる部分があるかもしれません。ご了承願います。
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